【心象観察】クラフトマンと途上-今を楽しめ-

どうも最近私は何か物を作ることに執心しているらしい。



子供の頃はひたすらに物を得ることで楽しいと感じていたと思う。
それは動物園でかわいい動物達を見ることだったり、ゲームをして楽しい思いを提供してもらったり、そういうことだったように思う。
そしてそれは、アニメを見るだとか誰かの漫画を読むだとか形こそ違ってはいたが、割と最近までその傾向は続いていたように思う。

数年前から変化の兆しはあった。あったが、それはただの憧れだったように思う。
それは恐らく、類まれなる技術への羨望だったり、困難な道を踏破せしめた力への陶酔だったり、或いは単純に賞賛への羨みだったように思う。
だから割とすぐに現実の前に折れたのだと思う。それはやはり自分の力の無さ、努力の不足を示すものでしか無くて、当時の私が欲しかったものを与えてくれるものではなかった。
だから私は人に絵を見せるのをやめた。

最近また筆をとった。いい作品に出会えたとかそういう理由もあると思う。
けれど、前の時と違うのはただひたすらに楽しいってことだった。
何が楽しいのかと言えば、自分が実を成していくのが楽しいのだ。
今までに取り入れた知識、感動した作品、グッとくる瞬間、そういったものが私の中に溶け込んで、今私の号令の元1つの結晶に成りつつあるのが楽しいのだ。

コンテンツを楽しむ側から供給する側への変遷。これには一体どんな感情の機微が働いたのだろう。

根拠は無いのだが。
私の場合、楽しむ側が受け取る快楽に限界があることに気付いたのではないか。
受け取る快楽は、そのコンテンツの質に依存するという欠点はあるものの、自らの性癖に特化したものを受け取ることでコストパフォーマンスの高い快楽を得ることができる。
それに対し、供給する快楽には苦悩がある。そして苦悩を対価とし得られる快楽はそれこそ新世界のもののように素晴らしい。
もちろん、そこには個人差がある。
受け取る快楽だけで人生を充分エンジョイできる人もいれば、人生の早々に創作に目覚めそんなに苦悩を感じることなくどんどん練度を上げていく人もいる。

が、やはり思うのは、人は受け取る快楽を知ってから創作する快楽を知るということだ。
そしてその切り替わりの時というのは、何か精神の転換点とも言える時なのではないか、と感じた。

私の場合、最初に創作したかったのは単に褒められたかったからだと思う。
その証拠に、数人しか見てくれなくて寂しかったし何も言われないのが悲しかった。
今は別にそうでもない。書くのが楽しいから書いていたい。公開することで誰かが喜んでくれるなら公開したい。

つまり、承認欲求が満たされただとか余裕ができただとか、そういったことが私を変えたのだと思うし、そういったことによって私は『大人になった』『自立した』のだと感じた。

今、私の周りには余裕が無い人がいっぱいいる。皆子供と大人の途上にある。皆悩んでいる、ままならない現実と、目に見えない焦燥の中で。
しかし、私が思うに、あの時見えた果てしなく厚い現実の壁は私自身がそう見せていたに過ぎなかった。
落ち着いて周りを見てみたら、意外と解決法があった。
今でもたまに視野が狭くなりそうになる時がある。
その時は困難そのものを見つめてはならない。
今するべきことをただ楽しむのだ。