ズレズレて三二八里

ズレを感じる。


twitterでとても面白いブログが回ってきた。
明朗な理論と細やかな着眼点、そして文全体から伺える筆者の真面目な人柄。
そのブログ記事には、人がどのように感じるのか、どうすれば人が動くのかが書かれていた。
人の精神面全般に興味がある私は喜んで読み漁った。

Web漫画を読んでいた。
今アニメ化されている、ネット上でもとても有名な、精神医療に関する漫画だった。
心理士の人が原作についてるだけあってわかりやすく、今まであやふやに扱ってきた心の動きが専門用語とともに解説されていた。


2つとも、とても、とても、面白かったのだ。


ズレを感じた

どうしようもなく私はズレていると感じた。
人の心の動きを、観察して、言葉にしている。
そう書けば私と同じなのに、どうして私の記事はこんなにも分かりづらいのだろう。
何か、私と違う。
このもやもやには覚えがある。

そして、今私は感じ取った。
もしかして、他の人は標準語で思考しているのか?と。

心の会話

皆さんはどういう風に思考していますか。
私の中の思考のイメージは、「複数の自分による会話」です。
ただ、私のみが特異なのではないか?と疑う点、それは自分語の多用です。

私は子供の頃、とても閉ざした子供でした。
自分の思考の中に閉じこもることがとても多く、何かについて考えていることが人より多い。
……まあそれは今でも同じなのですが。
ただ昔は本気で人と会話をする意義が理解できていなかった……そんなふしがありました。
(言葉があるのだから、人と会話するのと会話文のある本を読むのは何ら変わりないのではないか?)…つまり、実際にコミュニケーションを取ること、仕草から人の気持ちを探ることの重要性がよく分かっていなかったのです。

だから、子供の私にとっては、言葉というのはコミュニケーションツールではなく、ただ理論を組み上げるのに使うためのボルトやナットでしかなかった、ということなのです。
人に見せたりしないんだから、人に貸したりしないんだから、統一規格なんて守りませんし、そもそも統一規格の存在自体知らなかったのだと思います。
だから、その時作られた私の根源的な部分は、他の人から見たら火星人が作った糸巻き機みたいに見えるのでしょう。



『わたし』は『わたし』と会話する、そのためだけに作られた言語で『わたし』と話します。『わたし』と話して分かったことは、とりあえずそこらへんに積み上げます。
「この絵はとても×○◇◆としているねえ」

「そうだねえ」
「死について考えるとね、足が冷えてお腹が■◇▲◆○の」
「××されたときもそんな感じだったよ」
「死には似てないのにねえ」
「不思議だねえ」
「あの先輩は一目見た時に△◇●◎◆な感じがしたよ」
「ああ、今度入ってきた後輩もそんな感じ」
「避けよっか」
「そうしよう」

それで良かった。それで成立していた世界に、今度は『私』が生まれます。
『私』は皆に自分の中の研究結果を知って欲しかった。
なんで死と感覚が似た、全く死とは関係ないものがあるのか。
なんでヤバい人はひと目でそれとわかるのか。
一つ一つ、慣れない翻訳をして、少しづつ言葉にしているのです。




ひょっとして、他の人は子供の頃の段階から人間の言葉を使っていたのでしょうか。
ならば私がいつもしている翻訳という作業はしていないのでしょうか。


最初に上げた2つのコンテンツを見て、とてもまっすぐに育った論理というものを幻視しました。
その人の心の中に、子供の頃から積み上げてきた論理の幹があり、
その一つの枝に腰掛けた人が、日当たりの良いところで育った緑の葉を選び、その幹のように地面に垂直に積み上げている。そんなイメージを抱きました。

おそらく、私の幹はとんでもなく曲がっています。私の幹を手本にしたら間違いなく論理展開が歪むでしょう。
また私の葉は日当りを求めなかった。だから恐らくはまだ緑の葉が私の中にない。そんな語彙では人に伝わる文章は書けない。


恐らくは、かなり根本が原因で、私は人に伝える文章を書くのが困難なのです。

諦めるつもりはない

とはいえ、そもそもこんな文章をかけたのは私が歪んでいたからだということは紛れもない事実です。
そこを卑屈がるつもりは無いですし、むしろ誇る気でいます。
歪んだ幹のてっぺんからは他の人がけして見えないものも見えるでしょう。
これから太陽に向けて伸ばし直す途中なら、地面すれすれで太陽を見た時の景色を、大人の語彙力で表し直すことが出来るはずなのです。


これはきっと、とても面白いことです。