欲しいのは「転換期」

このブログも立ち上げてから1年はとうに経った様に思います。

正直、マンネリの様相を呈して参りました。

 

欲しいぜ、転換期。

 

 

 

どこにお前は行きたいんだぜ

転換期を求めるからには、行きたい所を見つける必要があります。行きたい所、やりたいこと、このブログでやりたいこと……ううむ。

 

今まで色んなことをこのブログで取り上げて参りました。

ミニマリスト目指してみたり(挫折したユング的な精神分析に興味出してみたり(挫折した)うまいこと言いたいだけの記事書いてみたり。

つらつらと、連ねて思うことは。

あっこいつ一貫性無えな…………

という真顔100%の概観でしかなく。

そもそもの問題としてこれは、私の中に木を育てきるだけの養分たっぷりな土が存在しなかったのでは、というような気もしてまいりました。

 

土とは

土、土台、人間としての資質、つまりは価値感。

一人の人間として、ひとつの世界を測り切るだけのものさしすら満足に持てていなかったんじゃないか?世界というあまりにもでかい情報量のものを分析しようとするには、足元が覚束なさすぎるんじゃないのか?

そんな考えが私の中をよぎるようになってきたのです。

それは私のコンプレックスである、内面の子供っぽさから目を背け続けてきた結果……のような……気がしないでも………ないような……………

 

 

結論から行きましょう、このブログをもうちょっとまともにするために必要なものは何か

  1. 著者の過去や現在の公開
  2. スタンスの確立
  3. 定期的な更新

一にもあるように私は自分の性別、立場、職業、過去のトラウマから現在のメンタルヘルスまで、全部隠したままこのブログを書き続けていました。

それは見てる人に先入観を持って欲しくないからだったり(特に性別)そこまで赤裸々に晒すことに抵抗があったり(トラウマとか)したからです。

私自身、将来がどうなるかわかりません。悲惨な未来を辿るのか、割といい人生送れるのか、今がその岐路にあって本当によくわからないのです。もし万が一、このブログが私の弱点になっては困る。そんな考えが私の中にあったのです。

だからトラウマを深く掘り下げなかった。自分のような苦しむ人に寄り添いたい、そう思いながらも自分自身の経験を赤裸々に出せないでいた。

私自身、もう過剰に自分の過去を隠すことをもうやめたいと思ってきているというのもあります。自分が思ってきたことを、言えなかったことを、もう隠さないでありのまま全部、このブログにくらいぶちまけてもいいんじゃないかって、最近ではそう思います。

そうしないと自分自身が定義できない、そんな気がするんですよ。

2の自分のスタンスの確立というのはそういうことで、つまり自分が何ができるのかわからないから色々チャレンジしてみたいと、そういうことです。

自分の過去も全て洗いざらい吐いて、そこから今の自分を見つめ直せれば、やっとそこでやりたいことが見つかるんじゃないかと、そういう思いがあります。

 

そんな感じで行きたいです。

 

あたしの求めてることって?

※今回はほんとどうしようもないただの愚痴記事です





結局、あたしが求めてることって何なのかしら?
ということを思うにつけ目の前が真っ暗になっていくような気持ちでいます、私です。
いやあ急にね、何女口調で言ってんだってなりますけどね
そういや私はなんでブログなんて書いてんだっけ?と考え出すと止まらなくなるわけです、色々と。

元々、活字は好きな質だった。子供の時は図書館に入り浸って、夏休みに図書館の壁の外の暑苦しい空気を何となく肌で感じながらも涼しい室内であのブレイブストーリーの分厚い本を何度も繰り返し読んでた。そんな子供だった。
一方で、アウトプットの方は散々だった。本好きの少年少女は皆小説を書くもんだと思ってた。けど実際問題、私は小説を書くことに憧れるだけ憧れて、文芸部にまで所属しておきながら全くまっとうな小説を書きやしなかった。
いつか書く、今書いてる、こんなの書きたい。そんな事だけ言いまくった。
小説を書くってことだけが文学人間の自己実現だと思ってた。

思えばさ、小説にずっと執着してたんだよな。
私にも小説が書けるってずっと思ってたんだよな。
私の周りにさ、私の書き上げた小説がほっとんどないのはさ、何かしらの運とかタイミングとかが悪かったんだってずっと思ってたんだよな?お前は。
それでも尚私には小説が書けるってずっとずっと子供の時から思ってたんだよな?



違ったんだな。
私に書けるのは小説じゃなくてエッセイだ。
こういうさ、どうしようもなく小汚い執着を脂汗かいて文字に起こしてふんじばって格闘してさ、
そういうのがお前が見たかったものだったんだな。

つまりは、アレだ。
お前が一番好きなのは、私のブログ記事における「私が自殺しなかった理由」の記事なんだよな。
4大元素でも社会的定義でもなく、ただただ個人の七転八倒が見たかったんだよな。
だからお前は……



という、愚痴でした。
前の記事の後編?悪いが書きたくないね!
……いやまあ、どうだろ。流石に書くっつったからには書きたいけど……どうだろ、どうだろね。
最近色んな物がごったまぜで疲れます。忙しいからですね。息ついて考えてる暇が無いから頭んなかの物が混ざるんだ。まいったな。

どうしようか。どうしようか。そう自分に問うてることが多い最近です。
そろそろ決着をつけなければいけないような気がしてるんです。そのチャンスはもう今しかないという予感がしているんです。
ただ、どうしようか。どうしようね。
やり方を決めかねてうぞうぞと蠢いては力尽きています。
うーん、どうしようか。いっそ自分で自己分析した方が早いような気も……
ううん、悩む。悩みますね。
果たして自分とは何なのでしょう。そしてそれを決めるのは誰なのでしょう。







PS.
小説にしろブログ記事にしろ、本気を出して血を吐いて書いたものが自分でも後々お気に入りになるもんだと気付く

善行を善行でなくするという善行

例えば君が善行をしない理由。



善行。善であること。
この際、善悪の定義は曖昧でファジーなものにしておこう。
その曖昧な善行という行動について、ただひとつはっきりと言えることがあるとすれば。
それは皆が先んじてやりたがるようなものじゃないってことだ。


皆が先んじてやりたがるようなことって何だろう。それは利益があるってことだ。人より高く売ればトクをする、人より早く見つければトクをする。
実利的なものは生まれると同時に食い荒らされる。食い荒らされて出来た泡がはじけて実利的なものを生む。
そうして社会は少しづつ前の方へ。実利的なものは常に進化し、仕組みをより効率的なものにする。



それに対し、善行ののろまさよ。

善行は、人が万物の霊長になったその日から変わらず在り続ける。具体的に言うならば、日々のごみ出しであり、募金活動である。つまりはつまらない上につましくて誰がやっても変わらなければ押し付け合いも終わらない、まったくつまらない、進歩のしの字も無いようなしみったれたシステムなのであった。
まあ、一言で言うならば「他人のためにしかならない活動」である。
この時点でもう、どうしようもないのがわかるだろう。

「誰がやっても結果は同じ」であるが「執行者は利益を受けられない」となると、そんなものは誰かがやってくれるのを待つのがいいというのは自明の理だろう。そんなものやったって意味が無い。そんな特殊効果のあるカードを使う奴が居るわけない。いや居るかもな。いやいやいや。

とにかく、とにかく。
「善行」というシステムには致命的な欠陥がある。なのになぜ、まだその古いシステムは使われ続けているのか?

否、使われ続けているというのには語弊がある。一部で破綻し、ゴミはたまり放題のままで、見かねたお局様が怒りながらやるような、そんな古ぼけたシステムになっている。
そんな欠陥持ちのシステムを今まで回していたのは誰だったのか?

それが「善」というものである。


つまり、道徳である。時代を下れば儒教であり、キリスト教であり、ノブレスオブリージュから武士道から、エトセトラエトセトラ。そのようなものが為した役割は何か。「高潔の価値化」である。
善行を、ぶっちゃけて言えば「めんどくさいこと」をやった人間には褒美を与えよう、と名言したのがこれらの文化的教育の意味である。
とはいえ、その利益は実利的なものではない。何故か。それは今善行がなされていないからである。
とにかく忘れないでいてほしいのは、善行を行うことに全く実利が無いってことである。
それがまったくもう、困っちゃうポイントなのである。論点なのである。

話を戻して。では、そんな教育が、「善行の対価」として担保したものとは何なのかというと、それは「精神的安定」なのである。
キリスト教は「天国」仏教なら「悟り」ノブレスオブリージュなら「自身の高潔さ」つまり、「アンタはすごい!」という言葉だけ与えられて実際「物」は何一つ与えられていない、ということに気付けるだろうか。

別にそれが悪いとか言いたい訳ではないのです。それで精神的安定が得られていた時代ならそれで良かったのです。
でも、もうアポロ11号は月へ行っちゃいましたから、そうも言ってられません。これが「善行の破綻」なのです。






破綻した善行を、いかに回復するべきか?
やる気があったらまた【後編】で会いましょう。

【四代元素】泣いてる人には怒るべし

泣いてる人がいるとして
その人は誰かにめちゃくちゃなこと言われて泣いてるとして
さてあなたはどうすべきでしょう
①泣く
②話す
③怒る




さあ、まずは①泣くを選んだあなた。同調と共感が基本技術なあなたは世渡り上手。
次、②話すを選んだあなた。とりあえず吐き出させようって魂胆ですね、なるほど。ラッキーアイテムは豚の生姜焼きです。
さて最後に③怒るを選んだあなた。怒りっぽいですね。将来の夢はきっとパン屋さんでしょう。

では、ここで一度想像してみましょう。あなた、何か理不尽な要求をされた覚えはありませんか。むかっ腹がたった話、というよりは、理不尽で訳の分からないことを言われた話がいいでしょう。理不尽だし自分だけが悪いわけではないけれど、けど確かに自分も悪くて、ぐうの音も出なくって、凹んでしまった。という感じ。

さてそこで凹んでるあなたの前に友人が現れて、あれは酷かったね、元気出しなよ。と言われたらあなたはどうするでしょう。
うん、そうだね。ありがとう。くらいなもので、途端に元気になるわけではないのではないでしょうか。
次に友人に誘われて飲みに言ったとしましょう。言われたこと、思ったこと、それをぐだぐだと話して、話し尽くして、そうしたら気分が晴れることもあるでしょう。

ではここで、あなたの前で怒ってみましょう。「あれはおかしい。そもそも、あの人が言うことではないし、それをあなたにぶつけるのもおかしい」と。
その時あなたは、「あ、確かに」と思えてしまうかもしれませんね。



つまり、泣いてる人の前では怒るのが有効なのです。
もちろん、全て場合にあてはまるわけではありません。①言われたショックで凹んでいる人に②相手の主張におかしなところがあることを指摘しながら③論理的に怒る、場合に役立つ戦法です。覚えておくといいかもしれませんね。



ここで言いたいことは、やっぱり悲嘆と憤怒は相反するということなのです。
悲嘆にくれながら怒ることは出来ないし、怒りながら自分を責めることは出来ないのです。
四代元素(ここでの四代元素というのは私のオリジナルな要素をめっちゃ含むやつです)的に言うならば、悲嘆は水の十八番です。水の元素を持つ人は、自己批判精神が旺盛の完璧主義者。自らを罰し、自らを批判し、その原因についての思考にふける。それこそが水の本質、悲嘆です。
それに対し、火の十八番は憤怒。外の世界への期待を持ち、常に求めるのが彼らです。人より多く言葉を発し、人より多く手足を動かしては刺激を求め続ける。だからこそ彼らは常に怒ります。求めるものが多い故に怒りを感じ、発する言葉が多い故に怒りを口にします。それこそが火の本質、憤怒です。

火と水は相反する元素。生き方は寄り添わず、完全に分かり合うのも難しい。しかし、真逆だからこそ嘆きと怒りは共存しない。
過度の嘆きには、怒りを与えてあげる。あなた沈鬱傾向があるのなら、怒りの精神を持つ。それが、魂を中庸に保つための秘訣なのかもしれません。

ただしあれだぞ、共感はできないからただ怒るだけじゃだめだぞ。論理的に批判しないと伝わんないからな。






PSじゃあ怒りすぎてウザい人にはどうすればいいんだろ。
お前だって人のこと言えないじゃんってつっこむくらいがいい塩梅かなあ…でもちょっと嫌われそうだ。
嘆きは本質的に苦痛だけど、怒りは本質的には優越感を生むからなあ…
感情から引き剥がして感謝されるのは嘆きだけなのかもね

最近の記事について補足がしたかった

最近の記事なんか、何だあれ。
って1番思ってるのは私です。

クニョマヌウットン族の記事、あれ今日の16時くらいに思いついたんだけど。まだ夕飯食えてねえんだけど。

最近なんかこう、よくわからんものに乗り移られてる感がある。
もちろんそんなエクゾシストな意味じゃなく、取り憑かれたように書く、みたいな意味で。
なのでこう、ハイセンスすぎる。
なんでこんな分かりにくい意図の伝わりにくい構成にしてるのか書いてる自分が分からない。
から、解説記事を書きたい。

けど

夕飯食べたいので

またいつか




PS.

ああああああああああフ゛ラ゛ジ゛ャ゛イ゛ル゛始まってたアアアアアアアアアアアアア

クニョマヌウットン族の日常について※くそ長いよ

クニョマヌウットン族の朝は早い。
モンケペべべの鳴き声は彼らの目覚まし時計だ。朝日と共に甲高い声を上げるダカン種のモンケペべべは、その日の朝食にもなる優れた家畜である。
その肉と骨はここでの生活を支えるのに必須だが、それを捕まえるのは至難の業だ。
何せ体外にまで張り出した45対の肋骨には毒があり、その内28対に追尾性能がある。
イルカ並の高い知能と高速移動するキャタピラを持つ彼らもかつては大海のサーベルタイガーと呼ばれたものだが、その高すぎる知能ゆえに論理パズルを出せば数秒間フリーズするという特性を持つ。
僕がこの村に来てから早くも4年が経とうとしている。都会育ちだった僕もこの地に育まれ逞しくなり、論理パズルを高速で出題する滑舌が備わった。
そう、僕がこの村に来ようと決意したのは――――






――から始まる本を書こうと思っているんだ。
やあ、君。手紙なんていつぶりだったっけ?







そう、だから僕は思うんだ。
なんで誰もクニョマヌウットン族の村に来ないんだろうって。
いやわかるよ?ここ来たくないもん。
ウォシュレットなんて無いし。
でも来ないのもおかしいんだよ。
クニョマヌウットン族の本書いてるってのにさあ、取材にも来ないし。
この間、ある本が届いたんだ。クニョマヌウットン族をモチーフにした本。
評価が高いって聞いたから、伝手使って取り寄せたんだ。
けどさ、肝心のクニョマヌウットン族の描写がひどいの。もう、これもはやクニョマヌウットン族じゃないよ。ババマグロザジ人だよ。
でもさ、これ聞いて君はわけ分かんないって思うだろ?
だってこの本、ベストセラーなんだから。



彼らだって調べていない訳じゃないんだ。彼らもクニョマヌウットン族の本を出版する以上、色んなとこからから資料を揃えて、読み込んでこの本を書いたのだろう。
それでも所々に間違いが見つかってしまうんだ。例えば小さな言い回し。「モサドは目を焼く日差しに悪態をつくと、そのまま階下へと飛び降りた。」
彼らは太陽を信仰している。決まった礼拝なんかは無いけど、太陽に無礼な振る舞いをしたものはひどく叱られる。
もちろんこの本はフィクションだ。クニョマヌウットン族の少年をモチーフにした明るく楽しい冒険活劇だ。
フィクションとしてはこの表現はありだと思う。主人公の悪ガキさがよく出てて、僕は好きだ。
何より、こういう言い回しにした方が楽しい。楽しいのはいい事だ。だってこれはフィクションなんだから。
でもクニョマヌウットン族にお世話になってる身としては、この表現はダメなんだ。



誓って言うが、僕は何もこの本を糾弾したいわけじゃない。
ただ、なんて言うのかな。
こういう文章は、心の無意識の部分に争いの種を植えてしまうんだ。
そうだ、聞いてくれよ。僕はここでも毎朝髪を整えて、髭を剃ることにしてるんだ。20年やってきたことだからね、そう簡単には抜けないのさ。髭剃りは無いから、バルザクンバを作るのに使う1番小さい刃物を借りるんだ。
そうして髭をそって髪を撫で付けて、さっぱりして水場から出るとね、子供たちは僕を見て「まただいなしになった」って笑うんだ。おかみさんもね、髪と髭を整えた僕を見るとちょっと呆れたような顔をする。
彼らにとって髪とか髭っていうのは男らしさの象徴なんだ。そしてその量は多いほどいいし、ねじれて荒くれているほどいいとされている。逆に、髪を切ったり髭をそったりするのは大地からの恵みの放棄であって、失礼なことなんだ。
何をされたら嬉しいのか、何をされたら怒るのか。そういうことが全く違う。
そういうことってそっちだと無いだろ。自分が嫌なことしたら嫌われるし、自分がされたいことをしたら喜ばれる。当たり前のことすぎて気付かないけど、それって恵まれたことなんだ。
ええと、話が脱線しちゃったけどね、つまり僕が言いたいのは「物の見方が全然違う」ってことなんだ。




こんな話を君にするのもおかしいかもしれないね。君、そういう本は書かないからね。それよりもここの北にあるタポイ運河に住むマタタイの習性の方が好きそうだ。あ、今度マタタイの前ヒレ送るね。傷の少ないのが獲れたんだ。
ああ、そうじゃなくて。だからさ。
「そんなの著者に言えばいいじゃないか」って君は言うんだろうな。
けどさ、そんなのがリストアップされた手紙を君は読みたいと思うかい?
間違いなんていくつも、いくつもあるんだ。しかもすごく細かいんだ。さっきのを見て分かっただろ。あんな感じ。
ちょっとした言い回しとか、そぶりに間違いが出るんだ。
例えばさ、話のキモの部分がおかしかったりしたら言えるよ。そもそも話が成り立たなくなっちゃうんだから。そこはもう、作家も編集も読者も、みんなで見張らなきゃいけないところだ。
話に苦情が来るってそういうことだろ?面白くなきゃ小説として正しくない。破綻してたら小説として正しくない。
僕達が守らなきゃいけない正しさってそういうことでさ、でも歴史上何度もその正しさが脅かされてきたよな。分かってるんだ。
だからこそ、僕ら作家ってのは面白さ至上主義じゃない、別の世界の正義を求められるのが怖いんだ。
あの本は小説としては間違ってないんだ。
でも、伝えようとすると「あなたの小説は間違ってる」って言わなきゃならなくなる。
そしたらきっと話も聞いてもらえない。
クニョマヌウットン族がこれ以上誤解される前に、僕の正義を聞いて貰いたい。
けどそうするには、あまりにも表現ってものが権力に振り回されすぎたんだ。





ここに来ればいいのに。実際にクニョマヌウットン族に触れてみればいいのに。そう言うのは簡単だ。
けどここはアマゾンの奥地。簡単に来れるような所でもないし、クニョマヌウットン族もよそ者を好まない。そう多く来られても、トラブルの種が増えてクニョマヌウットン族が批判されるだけ。そう考えると、知り合いのジャーナリストにもそう簡単に来いとも言えなかった。

それに、クニョマヌウットン族の本を書く人達がここを訪れなくなった理由がもう一つあってさ。
もう都会には本が溢れすぎているんだよ。
本屋の情報端末でクニョマヌウットン族を検索してみてよ。きっと100を超える関連書籍があることだろう。本にならなかったものはきっとそれ以上ある。ミニコミ紙、雑誌のコラム、新聞の読者投稿欄、あるいは日々の噂話。それら全部を集めたらいったい何ページになるのだろう。
それを見たら君も思うに違いない。「これを全て見て、聞いて、読んだのだから、実際に行かなくても十分正確な本は書けるだろう」って。
その中で何パーセントが実際にこの地を訪れて書かれたのか怪しいもんだと僕は思う。本当にクニョマヌウットン族に取材をしたのか疑わしい本だってある。けれどそんな本さえ見抜けない。

彼らの実態を知らないんだから、それは仕方ない。
けど本を読んで、それでもう十分だろうって思ってしまうんだ。どうしても。
多分、君も僕もそうだ。
クニョマヌウットン族のことでなきゃ、僕だって資料を集めて満足しちゃうんだ。
そうして本を書いちゃうんだ。そうして書いていくうちに、細かいところ、でも大事なところを、ぽろぽろ取り落として行くんだろう。
そしてまた、間違った本が出来てしまう。本の中だけのクニョマヌウットン族が育ってくんだ。
僕はそれが、すごく怖いことのように思う。




ああ、便箋がもうこんなに厚いや。もうそろそろ終わりにしないとな。最後にこれだけは聞いてほしいんだ。
こんな手紙を書いた理由さ。
なんで急にこんな手紙を?って、君は思ってるんだろうな。
でも、やっぱり今じゃなきゃダメなんだ。
今まではクニョマヌウットン族に興味を持つ人達なんて少なかった。だからこそ本の中に間違いがあっても問題は無かった。読む人自体が少ないし、実際に問題になる確率も限りなく低かった。
今はそうじゃない。
クニョマヌウットン族が取り上げられることが増えたよな。
クニョマヌウットン族に興味あるぜって言う人が増えてきたよな。
何が一番怖いって、そういう人達がまだマイノリティのつもりでいることなんだ。
もうそんなこと言ってられなくなってきてるんだ。
クニョマヌウットン族に関する本がたくさん出てる。クニョマヌウットン族好きを特集したコーナーだって増えてる。
今までと同じように、はもう通用しないんだ。
クニョマヌウットン族を本で知った人達が、クニョマヌウットン族に会う可能性が本当に高くなっている。
貴方の文化知ってますよってつもりで、クニョマヌウットン族の前で水瓶を指差して「アポー!」なんて言いだす人だっているかもしれない。

笑い事じゃない。本当にそういう映画があったんだ。そういうことしたらクニョマヌウットン族は怒るって、知らないで台詞書いてたんだよ。
その作品は、フィクションだった。普通のイギリス人とクニョマヌウットン族のラブコメディ。題材としては悪くなかった。言葉の通じない2人が少しづつ距離を埋めていく大事なシーンなんだ。落ち込んだ彼を笑わせようとするシーン。けど言った台詞がダメなんだ。中に水が入ってるものなんだから、「アポー!」じゃなくて「アパトソー!」じゃなきゃいけないんだ!
細かいだろ、ただの接頭詞の違いさ。でもさ、そんなのどうでもいいだろ、なんて思わないで欲しい。言葉1つにも歴史はあるんだ。
この接頭詞がどういけないのか。それを解説しようとするとクニョマヌウットン族と水の関係性について説明しなきゃならなくなる。彼らの信仰する宗教にまで片足つっこむ話だ。聞きたくないだろ。
僕も、言いたくない。だからその監督にもメール出したりなんてしなかったよ。
言っただろ、そういう指摘が一番嫌なんだよ、僕らはさ。
正しくないって言われたくない。それは「面白いものを作る」っていう、僕らの正義を守るために必要なことだったんだから。
政治的に、宗教的に、正しくない。なんて理由で本を焼かれたりなんてしたくないんだ。
けど、僕は本を焼きたいわけじゃない。
クニョマヌウットン族が好きな人達に、クニョマヌウットン族を傷付けさせたくない。
誰もそんなことしたいなんて思ってないだろ。でも、今はそうなりうるんだ。下地は整ってる。このままじゃ、いらない仲違いがおこっちゃう。

だから、もしクニョマヌウットン族が好きで、クニョマヌウットン族の本が書きたいって言うんなら。
せめてこちらから歩み寄らせてほしい。
僕達の声を聞いてほしい。

噂話になるようなクニョマヌウットン族は面白い。友達の友達のクニョマヌウットン族が、なんて話は楽しい。けど、創作が入りうる。そういう話だってことを、分かっててほしい。
ただ、一回だけでいい、クニョマヌウットン族自身の声を聞いてくれ。
クニョマヌウットン族が、クニョマヌウットン族として書いた本を読んでほしい。
そうしないと、君は本当のクニョマヌウットン族を知らないまま、クニョマヌウットン族を書いてしまう。
どこかに、クニョマヌウットン族が絶対に許せない行動があるかもしれない。
それを読者がやってしまうかもしれない。

そこで問題になるならいい。
多分、問題にならない。
クニョマヌウットン族の社会進出はまだ途上だ。
「私はクニョマヌウットン族だ。それは不快だ」と、言わなければ表れない問題なら、誰も言わなくなる。
社会でクニョマヌウットン族が透明になっていく。
それは駄目だ。
クニョマヌウットン族を愛する者として言う。それは駄目だ。









僕が君に出したこの手紙は、全部うそっぱちだ。
固有名詞も何も、エピソードも全部、うそっぱちだ。
でも嘘じゃないんだ。
起こりうるんだ。起こってるんだ。
どんな言葉を当てはめてもいいから聞いてくれ。
これは、全てのマイノリティで起こりうる話だ。




忘れないでほしい、君も僕も、いつかきっとマイノリティになる時が来る。

「テレビの言うことは信じるな」と言うたったひとつの理由

『君には記憶力が無い』
是か、否か。

『君には知識欲が無い』
是か、否か?







君は多く、知識を手にしている。
君はテレビを付ける。君は新聞を読む。
君はスマートフォンを叩く。君は誰かと話す。
君は普段からいろんなことを耳にするだろう。いろんな人がいろんなことをした話を聞くだろう。
ならば君に聞いてみよう。君に知識欲はあるか?



無いと答えた君には「ちょっとは空気を読んでほしい」と答えよう。
君はちょっと変わっている。大多数とは一味違う。
そういう人、俺は好きだぜ。だが今は黙っててくれ。

そんな少数の天邪鬼はさておいて、この世の大概の人間は、自分に知識欲はあると言うだろう。
もちろん全員が胸を張って答えるわけではない。
無いわけではないよ、旺盛な方でもないけれど。なんて答えるのが大多数の奥ゆかしい日本人的な回答ではないだろうか。
ともかく、君は日々情報を求めている。そう言ってもいいだろう。
君がスマホを叩くのは、君がテレビをつけるのは、何かしらの面白さ、つまりは情報を求めているからだろう。



であれば、そんな情報が大好きな君にプレゼントをあげよう。
「男木島図書館には、蔵書が2500冊ある」
ネコヤナギは雌雄異株である」
白磁・青白磁人間国宝は塚本快示さんという」
源氏物語60巻説という説がある」
「円周率の小数点以下560番目の桁の数は7である」
「p53と呼ばれる因子が活性化するとアポトーシスが起こる」
どうだろうか、楽しいだろうか。

無論楽しくない。
大多数の人間にとってはもうぜんっぜん楽しくない。
そんなこと言われたって逆に困るし、こんな情報ばっか乗ってるニュースサイトがあったら即潰れるだろうむしろ潰れてほしい。
ちなみに上記はwikiから持ってきた。新着にあったやつから適当に見たんだがなんと男木島図書館は昨日のバレンタインに開館したらしい。どうもうどん県こと香川の海に浮かんでいる人口180人ほどの小さな島。しかし元々小学校に付設する形で図書館はあったようで、そこには島の歴史に関する本の他、友好都市であるダブリンに関する本が多数あったらしい。その友好というのが意外なほど長く、当時鎖国中であった日本近くを通行していた複数の商船が座礁、その乗組員を匿い、船を直す材料まで提供したとかなんとか。そんな友好を示した図書館でもあったらしいんけれど数年前に起こった雷雨、その落雷による延焼で半分くらいが焼けてしまい、もう半分も雨で読解困難になってしまったとか。
本来ならすぐにでも買い直して図書館も立て直すところだろうけれど、人口180人の小さい島。子供も数少なく、このまま小学校をつぶし島の外に通わせるべきではみたいな動きにもなりかけていたんだとか。
そこに現れたのがダブリン市。子供たちの学ぶ場まで無くなるのは忍びないと海の向こうから2500冊を一括購入&輸送。その数、2500という数字は、かつて助けられた船員の数にちなんでいるという。





えっごめんこれ何の記事?と君は言ってもいい。
なんか初手煽られたと思ったら知らん島の解説になったでござる。と思ってくれて構わない。この部分の記述が長いのはそういう記事のつもりで書いているのだし、君を煽ったのは私の趣味だ。
なんでこうも長々と島の解説を並べたのか、そう聞く前にまず先に私が問おう。

男木島図書館の蔵書はいくらであろうか?
そして白磁・青白磁人間国宝の人の名前は何だっただろうか?



君は前者は覚えているだろう。その数は2500冊。
それはダブリンからの船の乗組員と同じ数。その歴史、その友好に至るまで、君はちゃんと記憶しているだろう。
しかし後者はどうだろう。白磁・青白磁人間国宝。思い出せるだろうか、その名前を。
陶芸家の父を手伝い15の幼い時分から陶芸の道を突き進み、モントリオール万博への出品や紫綬褒章授与などの果てに人間国宝に認定されたその人の名前を。



君が好むのは情報ではない。
君が好むのは物語だ。

いや君だけに及ばない。
全ての人類は物語を愛している。
それを知識欲と勘違いしているだけなのだ。
人は情報を求める。しかし真に求めているのはただ単品では役に立たない情報ではなく、情報と情報、その間にある繋がりを求めている。

君は覚えられない。人の名前を。
ただの人の名前。漢字4文字の組み合わせを君は覚えられない。
しかし君は覚えられる。それよりよっぽど長い歴史を覚えることができる。
300年以上昔から続く友好を。それが今に至るまでの物語を。君は覚えることができる。

君が教職につく人間であるならば、覚えの悪い生徒を叱ってはならない。
覚えられないその場所を、他の場所と繋げて見せるのだ。
君に何かを世に問いたいのならば、ただ正論を振りかざしてはならない。
正論に座して成功した人々の物語を説けばいいのだ。



人は単純だ。
物語を好み、理論を嫌う。
論ずるな、語れ。
そうすれば、誰もが君の記事を待ちわびるだろう。
君が物語を見出し続ける限り、人は君の記事に酔うだろう。
もちろん全てに物語が見い出せる訳ではない。
しかし、困難でも書き続けるしか方法は無い。
なぜなら君はジャーナリストだからだ。
情報を届けるのが君の使命だからだ。
より多くの人に届けるのが君の使命だからだ。
物語を忘れてはならない。
物語の無い、楽しくない報道など、誰にも届かないのだから。
誰にも読まれない報道に、意味など無いのだから。


















君はこのタイトルを読んだだろうか。







君は、どこから嘘だと気付いただろうか。
男木島図書館 - Wikipedia